【おかんな日々】12年目のつぶやき【あれから】

2018年10月04日

今日は、息子の誕生日。 14年前の今日、彼は元気に産声をあげました。 その前の日、前の週まで出産ラッシュで混み合っていた産院が、何故か息子が生まれた日には他に誰もおらず…。 入院病棟で、お医者さんも看護師さんも助産師さんも、独り占め状態。 生まれた瞬間から「持ってる」子でした。 そして2年後のまさにこの日に、息子と産まれて間もない娘を連れて、婚家を飛び出す事になろうとは、本当に夢にも思いませんでした。  

昔話を少しだけ

12年前のあの日、義父が息子を朝から日課の買物と散歩に連れて行き、予定通りに帰って来ました。 必ず日課の後、午前中に入浴する義父。その日2歳の誕生日を迎えた息子ももちろん一緒。   義父が息子を連れて入った瞬間、私はまず玄関から飛び出し、団地の階段を3階から駆け下りました。 観光地で有名な京都の中心地。タクシーが流しでたくさん走っていたのは、幸運だったと今でも思います。   右手をあげ、1台のタクシーを停め、運転手さんに言いました。 「荷物があります。ただ、急ぐんです!」   何かを察した運転手さんは、一緒に階段を駆け上がり、玄関に用意された荷物を持って往復して下さいました。 その途中、息子だけ先に風呂から上げるために響く「おーい」という義父の声。 夫が息子を受け取り、タオルで急いで水分を拭き取り、着替えをさせ終わった頃、荷物は無事にすべてタクシーに運ばれました。   抱っこ紐には7月に生まれたばかりの娘。 そして、息子の手を引いて、夫に目配せだけを残しタクシーへ。   「遠いんですが、奈良県大和高田市まで、お願いできますか?」   走り始めたタクシー。 流れる車窓。 見慣れた、風景。 15分ほどして、私は携帯を取りだし実家の母に電話をかけました。 「あのね、今から帰る。悪いけど、タクシー代用意しといてもらえるかな?」 絶句する母をよそに、電話を切り、息子がぐずりませんように…と祈りながらの道中。 毎日、本当に毎日、一日に何度も電話をかけてきていた母には、何一つ知らせてはいませんでした。 それでも母が多くを聞かなかったのは、やはり何かを察していたのでしょう。  

連れ去り未遂、そして調停へ

夫からは、1ヶ月間、何も連絡はありませんでした。 メールを送っても、返事はなし。 一度だけ電話が繋がった時に言われた台詞は、「子供は元気か?」ではなく「あの後大変だったんだぞ」。 それに続いて「息子は太ってないか?太らせたら、殺すぞ」。   その後、一度我が家と婚家で顔合わせをする機会がありましたが、夫が私に約束していた事は、何一つ果たされませんでした。   ある日、突然タクシーで実家に現れた夫が、「イレギュラーの検診に連れて行く」と息子を連れ出しました。 慌てて、娘を抱えて、同じタクシーに乗り込んで京都の保健センターへ。   息子は1歳半検診で発達の遅れを指摘されていて、2歳でもう一度…という話がありました。 その電話が夫の元にあり、あわてて飛んで来たとの事。   そして、ついた保健センター。 結果としては「もしかすると…」と濁されただけで「様子を見ましょう」というもの。 そして、建物の外に出ると義父が待ち構えていました。   息子だけを連れて行こうとする夫と義父。 このままでは本当に息子を連れていかれてしまう…! 娘を抱えたまま、私は保健センターの前で叫びました。   「息子を返して!!!」   警察が呼ばれるほどの、騒ぎになりました。 そして、義父が言いました。   「裁判所へ行こう」   息子を今連れて行かれなければなんでもいい。 それに従い、そこからそう遠くない家庭裁判所へ。 そして着いてからまず父に電話をし、すぐに来てくれるよう頼みました。   何故か、夫は 『訴えればその場で裁判して貰えて、その場で判決が貰える』 と思っていたようでした。 実際には、裁判所の相談員さんが、話を聞いてくれただけでしたが、夫は必死で 「男親に親権がありますよね!?」 と食い下がっていました。   「それは、この場では決められませんから、調停なり裁判なりで、後日決める事になりますよ。」   思うような結果を得られなかった夫と義父は憮然としていました。 そして、父が到着。 「こんな小さな子、おたくは母親から引き離すというんですか?子の面倒を見るとか言いますが、夫くん、仕事は見つかったんですか?」   父の言葉に、息子の腕をはなす義父。   勝手に仕事を辞めてきた上に、朝までゲームをし、昼まで寝る生活だった夫。 何故か私が疫病神だと罵る義父と義母。 他にもここには書けない問題を抱えてしまった夫の家族がいる状態の義実家。 元々は別居だったにも関わらず、夫が仕事を探さず(見つからず、じゃなく、探してすらいなかった)、家賃が払えなくなりやむなく同居。   その中で   夫でもなく、父親でもなく。 息子に成り下がった配偶者が、そこにいました。   なんとか息子を取り返し、父の運転する車で帰る道中。 「お父さん、ごめん。弁護士手配して貰えるかな…」   「わかった」   そして、調停が始まりました。  

調停から、裁判へ

調停は、別室調停でお願いしました。 訴えを起こすと、調停は相手の居住地で行なわれるため、幼い娘を抱えて何度も京都と奈良を往復しました。   近鉄京都駅から、タクシーに乗り 「京都家裁まで。烏丸を上がって下さい。」 引っ越してきたばかりの頃は、東西南北で表現される通りが理解できず、なかなか馴染めなかった土地。 気がつくと、よく混む川端通りではなく、烏丸通りを北上するように…と息をするように自然に言えるようになっていた事に、自分で驚きました。   前評判では、「調停員は高齢の男女のペアで編成される事が多い。土地柄的に女性には厳しいだろう。」との事。 家庭にあっては女は我慢しろ…という風潮なので苦戦するかもしれない、と言われていました。   まずは夫が調停員のいる部屋へ入り、今回の件を説明。 その後別室へ通され、今度は私が調停員のいる部屋へ。 私と夫は顔を合わさないまま、お互いの要求を伝えました。   夫は「離婚はしない。する理由がない。」 私は「離婚したい。する理由しかない。」   話し合いの細かい事(内容)は省きますが、このまま調停は2年くらい続くだろうと思っていました。 (通常そのくらいかかると聞いていました) 長い闘いになる…。 覚悟を決めていた、2ヶ月目。   「ねぇ薫さん。あなたはあの方と結婚までされていたから、一番良く分かっているでしょう。 我々が話していても、ちょっと常識が通用しないの。もう、裁判をした方が良いと思うわ。」   そう話す、女性の調停員。 横で頷く、男性の調停員。   結局、なにひとつ結論が出ないまま、調停は終わりました。   2ヶ月ほどして。   「このままだとね、ちょっと請求事由として、弱いんですよね…。酒を飲んで暴れるわけでもないし…。」 早く決着をつけたくて、裁判を急かす私に、弁護士が言いました。 「では、資料をまとめてきます。」 私はそう言って、つけていた日記や、他の証拠、今までの経緯などをまとめた文章を弁護士事務所に持参しました。   一通り目を通し   「これならなんとかなりそうです。裁判を起こしましょう。」   弁護士からその言葉を引き出し、そこから裁判が始まりました。     裁判が始まってからは、出廷を弁護士に任せ、私は京都に足を踏み入れる機会が少なくなりました。 最後に1回だけ、証人尋問の際に出廷すれば良いとの事で、あとは状況の報告を受けるのみ。 ところが、その内容は芳しくないものでした。   「裁判長が、50代の女性です。どうして女が我慢をしないのか?といった感じで進んでしまっています。」   不安で、不安で、どうしようもない日々でした。 もしかして、子供がまた連れて行かれるのではないか。 働かない夫、必要以上に働いたら家賃が上がるから収入を制限するんだと豪語する義父(公営住宅住まいでした)。 嫌だ!そんな向上心のない家庭に子供達をおいて起きたくない…!   そして、不安な気持ちのまま迎えた証人尋問の日。 裁判所に入る前に、弁護士と質問内容について入念に打ち合わせをしました。 質問事項を箇条書きに、A4の用紙2枚に書き連ねたものを用意し、法廷へ。     所定の席についたとき、真ん中の証言席を挟み、被告人側の席に着席していた夫に気がつきました。 驚いたのは、むしろ入室した際に私が夫に気がつかなかった事。   ここまで書いておいて何ですが、それまでは本当に、本当に夫の事を好きでした。 まだ、夫が心を入れ替えてくれるんじゃないかと、信じたい気持ちもありました。 子供が生まれるまでは、人生で夫が「全て」だったんです。   その相手に、私は、気がつきませんでした。   どんなに遠くを歩いていても、ああ!あの歩き方は夫だ! それが分かるほど、夫だけを信頼し、見続けた日々。   もう、違うんだ。   それを認識した瞬間でした。  

判決、そして確定へ

開廷時刻になっても、裁判長は現れませんでした。 誰もいない傍聴席。気まずい空気だけが流れる空間…。 しばしの遅れのあと、入って来たのは初老の男性でした。   「遅れて申し訳ありませんでした。前回までの裁判長が急病のため、今回私が代理で行ないます。」   弁護士がささやきました。 「裁判所の、ナンバー2です」   開廷してからは、ずっと裁判長のターンでした。 我々が用意した質問は、きがつくとほとんど裁判長が夫に質問をしていました。   「聞くこと、なくなっちゃうな…」   ぼそっと言った弁護士の言葉に、不謹慎にも笑いを堪えきれず、泣いてるフリをしてタオルで顔を隠しました。   裁判長にお子さんがいたとしたら、夫や私はあまり変わらないくらいの年齢だったのかもしれません。 何故、働かないのか。何故、仕事を探そうとしないのか。 足の怪我?(諸々の理由で、膝を粉砕骨折し手術してから松葉杖でした)事務の仕事はできるよね?どうして探さないの? 家族養わないといけないよね?奥さん下の子産んだばかりでしょう?しかも上のお子さん障害の診断出てるんだって? どうして貴方は何もしていないの?しようとしないの?   畳みかけるような質問が続きました。 どれひとつまともに答えられず、「妻がこう言ったから…!」と携帯の履歴を5分以上探していたりもしました。 もちろん、言ってもいないのに、そんなものは出てくるはずもありません。   夫からも私に尋問がありました。 全て、よどまずに答えました。   最後に裁判長から 「あなたは、今、夫の事をどう思っていますか?」 と聞かれました。   「もう、顔も見たくありません。この空間で、同じ空気を吸っている事すら、嫌で仕方有りません。」   夫の動きが停止していました。 まさか…!?という表情のまま。   その気持ちは手に取るようにわかりました。   こいつは絶対に俺に逆らわない。 こいつは俺に惚れ込んでいるから、裁判だって気の迷いだ。 裁判はこいつの意思じゃない、親に洗脳されてるだけだ。   そう、言い続けていた夫。 だからこそ私の言葉は、にわかには信じられなかったでしょう。   婚家を出たあの日。 そう、あの前の晩に、夫と今後について色々話しました。 途中で義父母に呼ばれて、戻って来た夫は急にかたくなになっていました。   結局 「一旦、頭を冷やす為に実家に帰らせてください」 そう、お願いしました。   荷造りを一通り終え 「ひとりでおいていく事になるけど、ごめんね」   一縷の望みをかけて抱きついた時、夫の両手は、ゲームのコントローラーを握りしめたままでした。     あの時に、私の気持ちは、もう離れていたのかもしれません。   ————————————————————–   裁判でのこちらの要求は、「離婚」そして「子供達の親権」。 「慰謝料は請求しない」けれども「養育費は子供1人につき月2万円」。   閉廷間際、裁判長が言いました。 「判決は、3月○日にこの法廷で言い渡しますが、書面でも通知しますので、ここに出廷しなくても構いません。」 そして夫の方に向き直り 「控訴する場合は、判決から2週間以内に…」   弁護士がつぶやきました。 「勝ちましたね…!」   そう、和解勧告は結論を先延ばしにするだけだったので、何がなんでも判決として離婚を命じて欲しかった。 ここで「控訴」という言葉が出た時点で、「和解」ではないんだと、確信が持てた瞬間でした。  

判決後、本当の闘いの日々

4月の上旬。控訴の期日がすぎ、判決が確定。「夫」は「元夫」となりました。 晴れて、離婚が成立したことを受け、子供達の親権を完全に移すための手続きに裁判所(今度は地元)へ。   正直、このあたりの残務処理が一番しんどかった記憶があります。   裁判の途中で、息子は自閉症と正式に診断されていました。 その翌年には「軽度知的障害」。翌々年に「中度知的障害」。さらに次の年には「重度知的障害」と診断。 多動もかなり激しく、一時も目が離せない日々。 「危ない」「怖い」「痛い」が分からない、もしくは鈍感な息子は、いつ飛び出して命を落としても不思議ではありませんでした。 また、実家へ戻ってからというもの、母の状態も良くありませんでした。 (母は私が小学生の時に統合失調症を発症しています)   息子(母にとっては孫)の診断で、私より先に大きく取り乱す母。 行方不明になり、捜索願を出し…。 自宅では下剤を飲みまくり、お腹が痛くなると痛み止めをワンシート飲んでしまう。   毎日が地獄絵図でした。   そんな母の面倒をみながら、息子を療育に通わせる手続きをし、娘も保育所に預け、働きに出る事に。 幸い、実家が商売をしていた事もあり、その辺りは助かりました。 ところが   「どうして向こう(別れた婚家)に子供おいてこなかったの?サービス業なのに、そんなに仕事休まれたら困るんだけど。」   意外と、世間は容赦がありません。 悔しくて、泣きたくて、わめきたくて。   けれども、帰るとすでに発狂している母がいました。 私が打ちひしがれて、泣いている暇は、どこにもありませんでした。     その後、行方不明になった母を警察が保護。 初めて私ひとりで母の病状を説明に病院へ赴き、今までの事を話しました。 元々の母の性格のこと、父に愛人が複数いてその人達の陰湿な嫌がらせが続いていたこと。 それが元で発狂した経緯、ひとり暮らしで逃げた私に一日20回近く電話をかけてきていたこと。   全てを聞いた医師が言いました。 「娘さん、これは統合失調ではないです。躁鬱です。」   診断名が変わり、薬が変わりました。 そこから、母は劇的に落ち着いていきました。   私の20年…ずっと母の面倒を見て一生を過ごさなければいけないのかと思っていた20年が、ようやく過ぎ去ろうとしていました。    

12年前、みなさんは何をしていましたか?

あの頃の私は、起業するとは夢にも思っていませんでした。 そして、息子の大変さ(多動)が一生続くと思っていました。 このまま、母と子供達の面倒を見るだけの一生で、終わるものだと思っていました。   あれから12年。 今私は起業をし、ひとつのプロジェクトを終了し、新しい事業を始めています。   気がつけば息子の学校のPTA会長になり、気がつけば息子は学校と事業所さんでは落ち着いた子になりました。 (家ではまだまだ荒れていますが…)   あれから12年。 結局養育費は一銭たりとも支払われていませんが、なんとかここまでやってきました。   当時産まれたばかりの娘は6年生になり、お兄ちゃんと仲良く過ごしてくれています。 (どうも勉強は嫌いなようですが…)   あれから12年。 たった1人で戦っていた当時。今は、周りにたくさんの友人や仲間が、存在します。   あの頃に、こんな自分を想像することはできませんでした。 (考える時間もなかったのもありますが…)     あれから、12年…。     干支が1周回ったことで、何かに区切りがついたような気がします。 そして、あの頃の自分を思いだせばだすほど、思うのです。     「私、泣きたかったんだ…」     と。    

この12年間で関わってくださったすべての方へ

息子の誕生日なのに、その事に触れたのは冒頭だけという、出だしに騙されてここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。 そして、今日のこの日までに、私や息子、娘に関わって下さった皆様に改めて感謝を申し上げます。   12年前の決断がなければ、「今日」という日はありませんでした。 この日に繋ぐことが出来て、本当に良かった…。 ここには書ききれなかったのですが、節目節目で背中を押して下さり、助言を下さった方が大勢いらっしゃいました。   本当に、本当にありがとうございました。 そしてこれからも、どうぞよろしくお願い致します。   平成30年10月4日 息子の誕生日に寄せて
栗本 薫 ボイスデザイナー

栗本 薫 ボイスデザイナー

「声はあなたの武器になる」 という理念のもと「姿勢・呼吸・発声・発音・話し方」の5つを柱とした「ボイスデザイン」を提唱。 声楽・司会・ウグイス嬢などを通じて、声の勉強・トレーニングをし、その人・その場に合った声を見本として見せる指導が出来る。 企業研修をはじめ、経 営者や議員、講師などの「声の指導」にも力を入れ、数多くの「話す悩み」を解決。 「どの話し方講座より、ここに最初に来るべきだった」「発声や発音をこんなに分かりやすく教えて貰ったのは初めて」と評価を得ている。

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