ボイトレ思考

ずっと歌うことが好きだった 寝ても覚めてもボイトレ思考―前夜①―

 

宝物はアニメの曲が詰まったカセットテープ

まだまだカセットテープが全盛で、レコードプレーヤーだってオープンリールだって現役で活躍していた頃、いくつかのカセットテープが私の手元にありました。

ミニコンポが発売されるよりも数年前。
上から順にレコード・ラジオ・音量・ダブルカセットデッキと、何段にも重なるシステムステレオが全盛期。CDもMDもBluetoothなんて影も形もない時代に、私は家にあったレコードとカセットテープを聴くのが、正確には聴きながら歌うのが大好きな子どもでした。

イチオシのレコードは、Vivaldiの四季。このレコードには譜面も入っていて、まだ良く分からないながらも譜面を目で、指で、追いながら聴き、メロディーを口ずさむ。中でも一番お気に入りだったのが夏。リアルな雷は大嫌いな癖に、奏でられる雷の音の迫力が大好きで大好きで。何度も聴いていたことを覚えています。

ちなみに、他のレコードにはベートーヴェンの「田園」「ママとあそぼう!ピンポンパン」などがあったのですが、やはりかけるのは「四季」ばかりでしたので、相当に気に入っていたんだなと改めて思います。

オムニバス形式のカセットテープ

そして何よりヘビロテだったのが、アニメの曲がオムニバス形式で収録されていたカセットテープでした。

曲の中には「ルパン三世」「星の王子様」「キャンディキャンディ」「宇宙戦艦ヤマト」などがあり、それはもう聴きに聴き歌いに歌いまくる日々。一人っ子ですし、家も線路の横。騒音だって気にならない立地という事も含め、誰に気兼ねすることもなく、デッキがある和室で歌い続けていました。

今でこそ、母の鼻歌に「音が違う…!」とか内心でツッコミを入れる状態ですが、当時の私の歌の師匠は紛れもなく母。そして、語彙力が足りない上に聴きとれずで「ルパン・ザ・サード」を「♪ルパンダサー!」とか歌っていたのも気にしなかった母(後で聞くと、母も分かってなかったらしく、まぁいいか!だったそう)。明らかにこの頃の「自由に好き勝手歌う」経験がベースになり、私の「歌好き」を決定づけたのだと思います。

母の願い、子の想い。

そんな私をみて、母は私に夢を語りました。

「将来は、まず歌のお姉さんになって、その後NHKのアナウンサーになって、その後オペラ歌手になって、最後は歌って踊れる主婦になってね♪」

また、よく考えるまでもなく盛りだくさんな夢です。
んな都合よくできるかー!と思いますが、なんせ好き勝手歌っていた万能感あふれていた幼少期(世間知らず真っただ中)、全部できるんだー!すごいー!なんて考えてますます気を良くして歌い続けます。

そして、小学校の4年の12月、合唱部に入部。今は分かりませんが、当時県内では強豪で有名だった合唱部はオーディション必須の部活でした。

そこからソロ(正確にはソリ)に5年・6年と2年連続で選ばれ、NHK合唱コンクールで金賞も頂き、もうこれしかない!と、舞い上がり、そのまま大阪の音楽がある私立中学へ進学。詳細は省きますが、その頃既に小学校に居場所がなかった私にとっては、若干の「逃げ」も含めての進学となりました。

向かう所敵なし!「歌と言えばクリモトさんだよね」

クラシックの世界では「最初から声楽!」という人は意外と少なく。
どちらかと言うと、ピアノ科から、ヴァイオリンから、と専攻を変えて声楽科に転科される方の方が多いような気がします(クリモトが学生当時の話ですので、今は違うかもしれません)。

そんな中、中学生の時点で「声楽一本!」なんていう私は非常に珍しく。
だからこそ、そもそも競合も少ない。なので、とりあえず「クリモトさん歌うまいよねー!」枠を獲得し、中学校生活は順風満帆。
何かでいじられようとも、全て笑いに変える余裕も身につけて(家では色々あったものの)、電車通学が苦になることもない日々を送っていました。

そしていざ高校受験!
と言ったところで、中高一貫。ただ、中学部には「音楽科」というのはありませんでしたので、高校の音楽科は受験しなければいけませんでした。

ええ、受験って言ったって歌を歌うだけなんですよ。
筆記がー!5教科がー!面接がー!なんてこともありません。

動転・感謝・発熱・安堵

何人が声楽を受験するのかも気にせずにいたある日。
仮住まいをしていた家が、ボヤを出しました。

しかも「火事の際に逃げるための非常階段をつける工事の最中に、溶接の火花が内壁と外壁の間の断熱材に燃え移った。」という本末転倒。

帰ると、そこには内壁まで黒焦げの状態。
電気のスイッチの透明な部分(分かります?)も煤で真っ黒。
断熱材が焼けた嫌な臭いが鼻につき、化学物質であろう刺激が喉を直撃。

そこで私は前代未聞のパニックを起こします。
折しもそれは受験1ヵ月前。
こんな場所で歌なんて練習できない!どうしよう!?学校!?レッスン室が受験前で取り合いの状況だから使えるとも限らない!?どうするの!?

そこに救いの手を差し伸べてくれたのが、同じクラスの友人でした。

「うちに練習においで」

有難かったです。本当に、有難かった。
そこは空気の綺麗な山の上。厳密に言うと彼女の「家」ではなく「別荘」。
思う存分歌えるよ!と泊りがけで何度も呼んでくれました。

その時彼女のお気に入りとして聴かせてもらった、ミニー・リパートンの「ラヴィンユー」は、思い出の曲として今でも心に残っています。

そんな状況を経ての受験当日。
10人も声楽受けるの!?今まで単独トップ(単独しかいなかったようなものでしたが)を走ってきた私に戦慄が走ります。

何をどう歌ったのかも思い出せないほど緊張して、終わった受験。
帰ってからきっちり40℃超えの熱を出し、しばらく倒れこみました。

そして結果発表。
合格…の一報より先に

「あんた!一番で通ったらしいやないの!熱なんかだしてー!!」

と泣く母に、頼むから先におめでとうと言ってくれ…と布団から思ったことも、味わい深い思い出です。

高校音楽科、そして大学へ。初の挫折。

高校は音楽科。もちろん声楽専攻。
私の大嫌いな数学は、高校の1年と2年の2年をかけて数Ⅰをやるだけ。3年生では数学の授業自体がないというパラダイス!

とはいえ、「楽譜は数学だ!」という部分もあり、本当であれば理解はしておきたかったところ。私は「楽譜は算数だ!」で終わってしまった残念な生徒でした。

そして高校声楽科を首席で卒業し、ついに大学へ。
これも、私立ならではのエスカレーターです。
本当は違う音大に行きたかったけれど、諸々の(主に家庭の)事情で断念。散々夏期講習も冬期講習も通っていただけに、行けないとなったときは悔しくて、悲しくて。

そしてそのまま上がった大学では声楽科の人数が男女合わせて50人。
更に、自分がすぐには到底かなわないような上がいることに気付き、ここで初めて盛大な挫折を味わいました。

本来ならばここで「なにくそ…!」と頑張ればよいのですが、すっかりヒネてしまった私は、大好きだった歌が嫌いになるレベルで嫌になり、見事に落ちこぼれていきました。

ドラマでも「絶対こうなるよねー」って予想できるほどの転落劇。
やる気も、自信も、なにもかも無くし、ただただ「キャンパスライフ」を過ごすだけの日々が続きました。

師匠の薦めで、大学専攻科へ。挫折、再び。

当時、声楽を習っていた師匠はその大学の教授ではなく別の大学の准教授でした。その師匠の薦めで、卒業後は別の大学の専攻科(大学院新設にあたり設置される1年の過程)へ行く事に。

こちらも、受験は「2曲を歌う」。

合格枠は2名。受験者は確か4名だったような…(記憶が曖昧です)。
なんとなくヤケクソだったような記憶もあるのですが、どういう訳か合格。

新しい環境で何が何やら分からないままでいたところで、師匠がドイツへ転勤。
ええ!?となっている間にオーケストラをバックにした定期演奏会。

演奏会後、ドイツに行った師匠に代わり、新しく師となった先生に言われた言葉は、今でも忘れる事ができません。

「あなたね、この学校始まって以来の最悪の演奏だったのよ。」

何のために歌ってるんだろう?
何のために音楽をやってるんだろう?

どうして、私は受験に受かってしまったんだろう…。

 

あっという間に1年は終わり、卒業。
折しもバブル崩壊で音大卒に就ける職もなく、そのままいわゆる「家事手伝い」に。

時間をかけ、お金をかけ、やってきた事はなんだったのか。
あの時、行きたかった大学に行けていれば、もっと変わったんじゃないのか。
いや、与えられた環境で努力できなかった自分が悪いだけだ、責任転嫁するな。
でも、でも、でも…!

自分が全く見えなくなってた20代前半。
歌のお姉さんにも、NHKのアナウンサーにも、オペラ歌手にもなれない、なれそうもない。歌がへたくそな私になんの価値があるんだ。歌しかなかったのに!

大好きだった歌が、大嫌いになってしまっていた自分自身に嫌気がさし、何のために生きているのかすら見いだせなかった、あの頃でした。

②に続きます

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