ただ、伝えたかった。主義でも主張でもなく。ここに、私がいることを。
引っ越し・就職・結婚・出産・離婚。
一筋縄ではいかないバックグラウンドを抱えつつ、本当に私がやりたかったこと、過ごしたかった毎日へ帰結するまでの長い長いお話し、最終話です。
孫を見て、覚醒した母
離婚調停が続く中、子ども二人を抱えた生活が始まりました。
そして、上の子に判明した「自閉症」。翌年には知的障害も判明し、年々診断は重くなりました。
その状況に真っ先に耐えられなくなったのが、私の母でした。
結果だけお伝えすると、今回の私は一歩も引きませんでした。
ご近所の方に、知り合いに「お母さん可哀想に」と言われようが「一人っ子やねんから家でしっかり見てあげて」と言われようが、華麗にスルーをしてすぐさま病院へ入院の手続きをとりました。
その間も色々ありましたが、最も重要だったのが「診断の変更」。
今まで統合失調症と言われていた母は、私の説明を聞いた医師により「双極性障害」と告げられ投薬内容が変わりました。
すると、なんということでしょう!
薬がピッタリと合い、多少の浮き沈みはあるものの、今までの20年はなんだったんだ!?というほど母の状態は落ち着いてきたのです。
何より驚いたのは、母の変化でした。
「今まで、私とカオルは親子やし、女同士やし、きっと同じこと考えてると思ってたし、同じようにモノを選ぶと思ってたし、同じ行動すると思ってた。けれど、孫ちゃん(下の子・女子)、カオルの小さい時と全然違う。動きも、選ぶものも、なにもかも違う。カオルはそれを当たり前のように受け入れてる。あれ?もしかして、私とカオルも、違ったんちゃう?って気がついてん。」
よくぞ気が付いた!母!(だいぶ遅いけど!!)
満を持して起業
そんなこんなで、子ども達を保育所に預けつつ働く日々でした。
実家に帰って2年が経過し、ようやく離婚調停→裁判が終わり、ひと段落。
息子は小学校1年生から養護学校(特別支援学校)に入学しました。
そこで、今まで知らなかった「障害者福祉」に絡む、色んな事情を知ることになります。
今でこそ障害者が関わる多種多少な職業が出てきていますよね。
とはいえ、まだまだ「パン」「クッキー」製造がメインのお仕事であるところが多く、それが難しい人たちは100円均一のグッズ製造の内職や袋詰めで僅かなお金を手に入れる…。それこそ、有名なテーマパークで販売されているキャラクターのボールペン。見ると、定価は800円。けれど、それを障害者施設では1本0.8円(80銭)で組み立てているのが現状です。
安くても、仕事がないよりは良い。
とにかく、何かに取り組める環境が必要だから。
とはいえ、今20歳の人は20年後でも40歳。まだまだ元気に働ける。
けれど、息子が20歳になったとき今の仕事は余っているのだろうか?
このままではいけない。
そこで、一念発起をし起業。創業補助金にも採択され、ボウリング用投球補助台「ころりんスライダー®」を開発しました。商標を登録し、意匠も登録。
自分たちが使うものを、自分たちで作る。それを目標にまずは委託先の工場で製造を開始、ある程度のところで製造にかかわる一部を障害者施設にお願いする予定でした。
ところが、いざ委託…となった段階で工場の責任者が退職。
無理やり出来上がってきた台はすぐに壊れ、出荷したもの全てが交換となる状態に。その工場に見切りをつけ、次の工場を見つけ出しなんとか製造を再開。
しかし、ここも当初の予定より早く型が壊れてしまい、続けての製造の為には金型と初期ロットだけで最低1000万がすぐに必要…となり、生産が難しくなりました。
全国に500台は出荷した商品ではありましたが、その事業は断念せざるを得なくなったのです。
私にできること
シングルマザーで、子を二人抱え、母も抱え。
(父もいますが、この辺りもややこしいので割愛します。)
さて、私に何ができるのか。
せっかく会社を立てたのだから、潰したくはない。
いつかは、ころりんスライダー®が再開できる日が、10年後くらいにはくるかもしれない。
まずは、私に出来る事をやろう。
当時、ころりんスライダー®を販売しながら、KissA-きっさ-(きっとすべてのひとにすてきなあしたがやってくる)という、障害児・者に関わる人向けの茶話会を開催していました。その際に「なんでそんなクリモトさんって明るいの?」と色んな方に言われました。一人一人に説明するのもなんだし…と行った「明るいオカンの作り方」というセミナーが、いきなり満席の状態になったのです。
その後、何度も同じセミナーに来てくださる方がいらしたり、320席のホールが満席になったり、大きな自治体に呼んで頂いたり…。その経験の中でようやく気が付きました。
ああ、私、伝えるのが好きなんだ…!
小さいころ母が私に語った夢。
「将来は、まず歌のお姉さんになって、その後NHKのアナウンサーになって、その後オペラ歌手になって、最後は歌って踊れる主婦になってね♪」
歌わなくたっていい、声を使う事が、私は好きなんだ。
コールセンターもそうだった、その後の司会業もそうだった。
キャンペーンガールの仕事をしていた時も、道行く人に大きな声で話しかけていた。
私は、私の声で「何か」を届けたいんだ。
何者にもなれなかったけれど、私には「声」があるじゃないか!
生まれたばかりの赤ん坊が、お腹が空いたと泣くように。おむつを替えてと泣くように。子どもだった頃の私の声は、いろんな大人にかき消され、いつの間にか本当の望みは言えないようになっていました。けれど、もう今は大人。だったら気にせず声を上げてもいいんじゃないか。
ここに、私がいるんです!と。
どうすれば、伝わるのか。
障害を持って生まれた息子。
定型発達児(健常児とも言いますね)である娘とは、育て方が随分違いました。
育児本にある「普通」は一切通用しない。
伝え方ひとつとっても、色んな事を試しました。
「絵カード」「記号」「数字」「タイマー」「写真」…
成長に合わせ、「言葉以外」のコミュニケーションをずっと模索し続けてきました。そして、その方法を同じ境遇の保護者の皆さんに「言葉」で伝えてきました。
どのご家庭も、お子さんへの意思疎通が難しい、お子さんの意思表示が汲み取れないと悩んでらっしゃる中で、あらゆる比喩や例題を用いて「こんなやり方もあるよ」「これでうまくいった人もいるよ」「こういうのはどうだろう?」と話し続けてきました。
中でも、一番驚かれたのは「聴き取れる音の範囲」の話。
息子は、私がいくら話しかけてもなにひとつ発声をしてくれませんでした。
ただ、一応聴き取れてはいたのか、なんとなく理解はしていたような気はします。
そんなある日、息子が突然「喋り」ました。
今まで「トゥクトゥクー!くるくるー!」しか言わなかった息子が話したこと。
それは
駐車券をおとりください!お支払いは、クレジットカードまたは現金で~~
はい!?今なにを仰いましたか!?
今のって、iPadで観ていたYouTubeの音声だよね!?
と思いましたが、その声は紛れもなく息子のものでした。
そう、録音されてかつ平均化された音声は、余計な雑音となる周波数や揺らぎもなく、クリアに息子の耳に届いてたのです。
もちろん、意味が分かっているわけでもなく、その後に2語文が話せるわけでもなく。ただ、耳から脳内に入って聴きとれたものをそのまま発音できただけ。
だったら…!
私もまず何となく話しかけていた発音を変え、録音をし、息子に聴かせました。
すると、息子の表情が今までと明らかに違う変化が!
いきなり言われたとおりに出来た…というわけではありませんが、徐々にこちらからの意思が伝わるようになり、今となっては録音でなくとも聴きとって行動できるようになりました。
そんな、クリモト家での方法を知りたいとご依頼をいただき、学校で先生方に向けてお話もさせて頂きました。もちろん、息子に試したように聴き取りやすさを意識して。
「クリモトさんの話は分かりやすい!」
「一番うしろでもよく聞こえる」
「聞いていて飽きない!」
「話し方が上手い」
「もっと聞いていたいって思える」
嬉しく、有難い、たくさんの感想を頂きました。
私の話でお役に立てるのであれば…!
報酬があろうとなかろうと、とにかく喋り続けた日々でした。
伝え方を、伝える。
その頃は、起業して数年経っていたこともあり、周りには起業家仲間や、そういったコミュニティに所属する方が大勢いらっしゃいました。県が主催する起業家向けセミナーや交流会で、たくさんの方と出会いました。
そして、そういった場ではお決まりの1分間スピーチ。
- どうしてそんなに『あのー』『えー』を多用するんだろう?
- 発音悪すぎて何を話してるか分かりづらいなぁ。
- こうやって話せば伝わるのに、どうしてあそこで間を取らないんだろう?
- その語尾の発音だと反感を買うのに、これはわざとやってるんだろうか?
- 見た目はカッコイイのに、鼻声で喋ってるのは勿体ない…。
- 姿勢が悪すぎて声が辛そう…。
- あの顔の位置で話してたら、2時間講座はさぞ辛いだろうなぁ。
起業家さんの話し方を聴くたびに、疑問が膨らみ続けます。
声楽を勉強してきた私には「当たり前」の事が、知らない人にとっては「当たり前ではない」と気が付くのに、実は随分と時間がかかりました。
そもそも「喋るのなんて誰でも出来る」と、思っていましたから。
そこに落とし穴がありました。
喋るのは、確かに誰でもできる。
ただ、伝わる喋りかどうかは別。
そうだ!これだ!
私は、これを伝えられる!
これで、喋る人の困りごとを解決できる!
興奮冷めやらぬ状態で、まずは本屋に走りました。
私が思う事が、すでにあちこちで実践されているのかどうかを確認するために、「話し方本」「スピーチ本」を買い漁りました。
中には「そうそう、そうだよね。」という本もありました。
しかし、大抵の「話し方本」は私の考える「話し方」を教える本ではありませんでした。
そういった本のほとんどが、コミュニケーションスキルに重きを置いていて、どちらかと言えば1対1。初めて会う人に対する良い印象の与え方であったり、相手を不快にさせない話しの内容であったり、緊張しないための腹式呼吸法であったり。
それって、既に登壇している講師に必要だろうか。
相手の持ち物を褒める…ってそれは営業スキルであって「話し方」スキルと言えるのだろうか。しかも、読む本のほとんどの内容が言い回しを変えて同じことを書いていて、目新しいものはほぼありませんでした。
とはいえ、その「似たような内容」の本ばかりが出版され平積みで売られている事実は、私が思う「話し方」とあまりにかけ離れていて「こんな事を言って(教えて)も、果たして需要があるのだろうか?」という気持ちもありました。
そんな時でした。貸会議室としても運用を行っている当社の事務所で、ひんぱんに講座をしてくれていた友人の講師がいました。いつものように講座が終わったある日、こんな話になりました。
「終わった後、いつも背中痛くって。首とかめっちゃ凝るねん。」
それはねー!!!
分かる方にはきっと想像に難くないと思います。私がいかに熱弁をふるったか。
その友人の姿勢の癖を事細かに分析・説明し、何時間立って喋っても疲れない姿勢について話しました。聞き上手な彼女が「うんうん」「へー!」と相槌を打ちながら(まさに話し方本の通り)、真剣に聞いて実践をしてくれました。
「言われた通りやったら、今回背中痛くならへんかった!」
後日友人が教えてくれた報告に、「よっしゃ!!」と思ったその瞬間。
「カオルさん、それ教えたらええねん。巷に転がってる話し方講座と違う。絶対需要ある。私もどこ行ってもこんな指導聞いた事ないよ。」
ウジウジしていた気持ちがすっと軽くなり、よし、これでいこう!と思えるようになりました。折しも取引のある銀行さん経由で受けた県の支援機関による経営相談で「これさ、【話し方】ってカテゴリはもう飽和してるから【声】でいった方が絶対いいよ。今聞いた内容、すごい面白かったよ。」と言って頂いた事も後押しとなり、ボイスデザインは誕生しました。
「声の悩みで、東京まで講座を受けに行ったのに言われたのは精神的なことばかりで結局なにも変わらなかった。ここでこんなに具体的に教えて貰えるとは思わなかった。」
「今まで受けたのは、こういう時にはこう返しましょうって、そういうシチュエーションになる事がほぼ無いから、応用がきかない講座ばかりだった。今日の内容なら、どのシチュエーションでも使えるからありがたい。」
「話す内容は決まっているから、話し方より声が学びたかった。家での練習方法まで教われるとは思ってなかった。」
お客様の声で、いかに今まで困ってらしたのか、そしてそれを解決できたのかが可視化され、ボイスデザインがお役に立てていることが分かります。
小手先の「話し方」ではない、姿勢・呼吸・発声・発音・話し方の5つが揃ってこその講師・登壇者。これをもっと広めたい!
スーツは戦闘服。声は、貴方の武器になる。
音楽で一度ならず二度も挫折を経験し、この世界にはもう関わらないと思っていました。それこそ、演奏家として活動していない(できない)自分に対する盛大なコンプレックスでもありました。
その音楽の、声楽の経験がこんなに役に立つなんて!
子育てで得た新しい知見が、学んできた事とこんなに結びつくなんて!
SNSという情報伝達の大きな手段があるこの時代。
自分の伝えたいことが、あっという間に世界中に伝えられるようになりました。
新型コロナウイルス感染症という、今まで経験したことのない激動の日々を過ごしながらも、人はやはり人と話すことを求めているんだと改めて思います。
だからこそ
貴方の、その声で。
気持ちを、誰かに届けるために。
貴方だけの、その声で。
想いを、誰かに伝えるために。
時には指揮者、時には伴奏者として
貴方(ソリスト)の話す言葉を、届け・伝えるサポートを、これからも。