ただただ「目的地(行った事のない道の駅)に着く」という「目的」だけのために
娘の面倒は母に任せ、取りつかれたようにドライブをする月日が過ぎていきました。
後編です。(前編はこちら)
思えば、この時はまだアドレナリンやらドーパミンやらが出まくっていた時期でした。
「とにかくなんとかしないと」
そんな思いを覆い隠すように。何かをしていないと不安に押しつぶされそうになりながら。
「子どもたちが遊ぶ様子をほほえましく見守る」
そんな事は不可能でした。
常に後ろにぴったりくっついて歩く、手をつないで歩く。
「危ない」「怖い」「恐ろしい」が分からない息子には危険だらけの外出。
夫婦で子どもたちを見守る家族を見るたびに、仕方がないと分かってはいても
「どうして…」という思いがよぎる事もありました。
CMで見るような、テレビで見るような、当たり前の「家族の風景」。
当たり前でない事を悲観はしませんでしたが、「当たり前」がいかに難しい事なのかを、思い知らされた日々でもありました。
「遊園地へ行った」
「公園へ出かけた」
「旅行へ行った」
どれも手の届かない日常。
周りからそういった話を聞くたびに、何よりも娘への懺悔の気持ちが膨らみました。
「皆が当たり前にしているレジャーに、連れて行ってあげなくてごめんね。」
「お兄ちゃんに合わせる生活ばかりでごめんね。」
張りつめた糸が切れそうになった頃、児童デイサービスが放課後等デイサービスに変わりました。
それにより今まで平日で使い切っていた行動援護が、土日にまわせるようになりました。
息子は、行動援護であちこちのイベントへ出かけるようになりました。
「近鉄まつり」
「トミカ博」
「公園」
「BBQ」
「ハイキング」
同時に、娘と、娘だけと過ごす時間が出来ました。
「預ける事は可哀想」
事業所へ息子をお任せする事を、躊躇した時期もありました。
しかし、そうして過ごす事は、娘にとっては「可哀想」じゃないのか?
沢山の自問自答を重ねました。
吹っ切れたのは、前編で「緑の景色を見せると~」と教えてくれた主治医の言葉でした。
「何言ってるの!親が死んでからの人生の方が、この子にとって長いのよ!!」
今から親以外の人と過ごす習慣もつけておかないといけない。
自力で生活するにも、手を借りて生きるにも、一人ですべてできる訳ではない。
だからこそ、地域と溶け込むためにも、「お母さんじゃないとダメー!」という状況にしないためにも。
息子がいたからこその「当たり前への感謝」。
娘がいたからこその「苦悩からの脱出」。
そして、「明るいおかん」への日々が本格的に始まりました。