ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
方丈記からの、引用です。
現代語訳は
「ゆく河の水の流れは絶える事がなく流れ続ける状態にあって、それでいて、それぞれのもともとの水ではない。」
となります。
本文解釈は
「ゆく河の流れ」というのは、流れて行く河の水のことを指しています。
河が流れて行く様子を見ていると、池や沼とは異なり、とうとうと流れて行き、その水の流れは、河がなくならない限り絶えることはありません。『方丈記』の作者とされる鴨長明は、流れる河の水が、二度と戻らない事を見、「無常」という仏教の言葉と重ね合わせて、「常に同じものはこの世には無い」と強く感じて、この冒頭の文章を書き始めたと多くの人に解釈されています。 鴨長明の生きた時代は、戦乱が多く、天災や火災も多かったということが、『方丈記』の中に描かれています。 世の中に常なるものがないけれども、河の流れ自体は絶えないというある種の「歴史観」を、鴨長明は河にたとえて描きました。 「爽健美茶」のコマーシャルソングとしてよくしられる森山直太朗の「時の行方 ~序・春の空~」という歌でも「自然の移ろい」に時の流れをたくし、美空ひばりの「川の流れのように」では時の流れを河の流れにたとえていますが、これらの「時」の感覚は、鴨長明の『方丈記』の冒頭によって強く印象付けられ、鴨長明が感じた無常観は、『方丈記』によって伝えられて、現在でも、多くの文学作品に登場します。
以上、wikibooksより転載しました。
いきなりカタイ感じから始まりましたが、内容的にはいつも通りで参ります^^
子育てをしていると
「いったいいつまでコレが続くんだろう?」
と思う事が多々あります。
夜中何度も起こされた授乳。
やたらとかかるノロやらロタやらの感染症。
保育所からの急病での呼び出し。
おねしょ。
かんしゃく。
魔の2歳児のイヤイヤ期。
本当に終わるの!?と思いながらも、気がついたらもう中1(下の子は小5)。
そう、どんな事も「ずーーーっとそのまま」という事はないんです。
栗本は主に仏教学校出身です。
(幼稚園はカトリック、中・高・大と浄土真宗・大学専攻科でプロテスタント)
なので、「宗教」の授業で「無常」をたたき込まれて居ます。
無常は無情とは違います(よく間違われますが)。
「情がない」のではなく「常では、ない」。
どんなに辛い時期であっても、それが永遠に続くわけではない。
どんなに幸せな時期であっても、それが永遠に続くわけではない。
障害児を育てていると
「もしかして一生このままなんじゃないだろうか…」
という思いがよぎることがよくあります。
子どもが小さい頃には、特に。
一生喋らないのでは?
一生、意思表示できないのでは?
そんな事はありません。
働きかけて、手をかけていけば、必ず成長します。
(詳しくは過去記事「必ず成長します」で。)
今の辛さに耐えられなくても、激流に身を任せつつ、流されてみると
意外と良い場所に流れ着いている事もあります。
河の流れにまかせ、流れ着いた場所で芽を出す柳の木。
しなやかで、流された先で芽を出す柳は生命力が強く
実は、陰陽道的には「陽」の木とされています。
華やかに見える桜の木が、実は「陰」の木。
「陽」の木の下には「陰」の幽霊が描かれ、
「陰」の木の下で、「陽」の宴会を行なう。
もし、今、子育てでうちひしがれて悩んでいるのであれば
是非、笑って下さい。
もし、今、子育てて嬉しい事があって、とってもハッピーであれば
是非、自信を持って下さい。
常に同じではない。
同じように流れていても、同じ水ではない。
同じように時を刻んでいても、同じ時間ではない。
何かカベにぶつかった時は、幼い頃の子の写真を見て
「随分成長したよなぁ。」
と感慨にふけり、物事は必ず進んでいくんだ、と再認識する栗本です。